ログイン温室から戻った後、透花の中で何かが変わり始めていた。
蒼の前で弱さを見せたことで、透花は少しだけ楽になった。完璧でいなくてもいい。強くなくてもいい。そう思えるようになった。
家に帰ると、透花は母の日記の続きを読んだ。
今まで読むのを避けていた部分。母が病気を告知された後の記述。
『今日、医者から告知を受けた。癌。進行している。治療は可能だが、完治は難しいと言われた』
『透花にどう伝えればいいのか。この子は、きっと自分を責める。私が病気になったのは自分のせいだと思うだろう』
透花は息を呑んだ。
その通りだった。母が病気になった時、透花は自分を責めた。もっと早く気づけば。もっと母を休ませてあげれば。
『でも、それは違う。病気は誰のせいでもない。ただ、起こってしまったことなのだ』
透花の目が熱くなった。
『透花に伝えた。透花は泣かなかった。「大丈夫だよ、お母さん。一緒に頑張ろうね」と笑顔で言った。でも、その笑顔の裏で、この子がどれだけ泣いているか、私には分かる』
透花は唇を噛んだ。
『私は透花に、もっと自分のために泣いてほしい。自分のために怒ってほしい。でも、この子はきっと、最後まで笑顔でいようとするだろう』
ページをめくる。
『治療が始まった。副作用がきつい。吐き気、脱毛、倦怠感。でも、透花の前では平気なふりをしている。透花も、私の前では平気なふりをしている。
透花の視界が滲んだ。
『今日、透花が学校を休んで私の看病をしようとした。私は叱った。「学校に行きなさい」と。透花は泣きそうな顔をして、それでも学校に行った』
『私は間違っていただろうか。でも、透花には自分の人生を生きてほしい。私の看病だけに捧げる人生ではなく』
透花は涙を流しながら読み続けた。
『入院することになった。透花は毎日見舞いに来る。学校が終わるとすぐに。そして、帰りは夜遅くなる』
『今日、透花に言った。「そんなに毎日来なくていいよ。友達と遊んだり、部活をしたり
十二月、初雪が降った。 透花は窓から雪景色を眺めていた。白い世界が、静かに広がっている。 玄関のチャイムが鳴った。 透花が出ると、配達員が小包を持っていた。「透花さん宛です」「ありがとうございます」 透花は小包を受け取り、差出人を確認した。 蒼の母親からだった。 透花は小包を開けた。 中には、一冊の本と手紙が入っていた。 本は、植物図鑑。蒼が病室で読んでいたものだ。 手紙を開く。『透花さんへお元気ですか。突然お送りして、驚かれたかもしれません。この本は、蒼がいつも読んでいた植物図鑑です。蒼は、この本をあなたに渡してほしいと言っていました。「透花さんなら、この本の意味が分かってくれる」と。蒼は、短い人生でした。でも、最期の数か月は、幸せだったと思います。あなたと出会えたから。透花さん、ありがとう。蒼に、生きる喜びを教えてくれて。蒼の墓の薔薇は、元気に育っています。春になったら、きっと綺麗な花を咲かせてくれるでしょう。その時は、ぜひ見に来てください。蒼の母より』 透花は涙を拭い、植物図鑑を開いた。 ページの間に、しおりが挟まれていた。 そのページには、薔薇の項目があった。 そして、蒼の手書きのメモが添えられていた。『薔薇は、愛の象徴。でも、棘もある。痛みと美しさは、いつも一緒だ。生きることは、痛みを伴う。でも、だからこそ美しい。透花さん、ありがとう。君と出会えて、僕は生きる意味を知った。痛くても、辛くても、今日を生きる。それが、僕たちの庭だね。蒼』 透花は本を抱きしめた。 蒼の思いが、ページから伝わってくる。 透花は決めた。 この本を、大切にしよう。そして、いつか自分の子供に渡そう。 蒼の思いを、次の世代に繋いで
十一月に入り、季節は晩秋から初冬へと移り変わっていった。 透花は学校に通い、普通の日常を取り戻しつつあった。でも、「普通」の意味が変わっていた。 以前の透花は、誰かのために生きることが当たり前だった。自分を犠牲にすることが、正しいことだと信じていた。 でも今は違う。 透花は自分のためにも生きることを学んだ。弱さを見せることを学んだ。助けを求めることを学んだ。 ある日、クラスメイトの女子が透花に話しかけてきた。「透花ちゃん、最近変わったね」「え? そう?」「うん。前より、なんていうか……自然な感じ」 女子は微笑んだ。「前は、完璧すぎて近寄りがたかった。でも今は、一緒にいて楽な感じがする」 透花は驚いた。 自分では気づかなかったが、周囲から見ると、透花は変わったのだ。「ありがとう」 透花は素直に答えた。 放課後、透花は市立図書館を訪れた。 もう老婦人がいないことは分かっていた。でも、透花はあの場所に行きたかった。 郷土資料室に入ると、柏木美咲のアルバムが棚に収められていた。 透花はアルバムを手に取り、最後のページを開いた。 晩年の美咲の写真。図書館の前で微笑む姿。 透花は写真に語りかけた。「美咲さん、私、あなたの道は選びませんでした。でも、あなたに感謝しています。あなたが教えてくれたから、私は自分の道を見つけられました」 透花はアルバムを閉じ、棚に戻した。 図書館を出ると、冬の陽が傾き始めていた。 透花は病院に向かった。 蒼のいた病室を訪れるためではない。別の用事があった。 病院のロビーで、透花は待っていた。 やがて、白衣を着た医師が現れた。「透花さん?」「はい」 透花は立ち上がった。 医師は、蒼の主治医だった人物だ。透花は事前に連絡
蒼の葬儀は、小さな教会で行われた。 参列者は家族と、学校の友人数名だけだった。透花も、そこにいた。 棺の中の蒼は、穏やかな顔をしていた。まるで眠っているように。 透花は蒼の額に触れた。 冷たかった。「蒼くん、ありがとう。あなたと出会えて、本当によかった」 透花は囁いた。 葬儀が終わり、参列者が去っていく。透花は最後まで残り、蒼の母親と話をした。「透花さん、蒼が最期に笑顔だったのは、あなたのおかげです」 母親は涙を流しながら言った。「蒼は、病気になってから、ずっと何かに怯えていました。でも、あなたと出会ってから、変わりました」「蒼くんが……変わった?」「ええ。以前より、穏やかになりました。そして、よく言っていました。『透花さんと話すと、生きてる実感がする』って」 透花の目が熱くなった。「私も、蒼くんと話すことで、救われました」「蒼の墓には、あなたが言っていた薔薇を植えます。『永遠の約束』という名前の」「ありがとうございます」 透花は深く頭を下げた。 家に帰ると、透花は母の日記を取り出した。 もう一度、最初から読み直す。 母の不安、喜び、悲しみ、願い。全てが、ページから溢れ出てくる。 そして透花は気づいた。 母は完璧な母親ではなかった。母も、不安で、怖くて、迷っていた。 でも、それでもなお、母は透花を愛し続けた。 それが、母の庭だったのだ。 透花は日記を閉じ、窓の外を見た。 雨が降り始めていた。 十月の冷たい雨。母の葬儀の日と同じ雨。 透花は傘を持たずに外に出た。 雨に打たれながら、透花は歩いた。 行く先は、温室。 最後に、あの薔薇を見たかった。 夜の温室は、雨音に包まれていた。 割れたガ
深夜、透花は病院の裏手の柵を越えた。 月明かりが、うっそうとした木々の間を照らしている。透花は温室に向かって歩いた。 枯れ葉を踏む音だけが、静寂を破る。 温室に着いた。 月光が割れたガラスの天井から差し込み、内部を幻想的に照らしていた。 中央の薔薇が、闇の中で浮かび上がっている。 透花は薔薇の前に座り込んだ。「蒼くん……」 名前を呼んでも、答えはない。 当たり前だ。蒼はもういない。 透花は薔薇の花弁に触れた。 柔らかく、温かい。まるで、生きているように。「どうして……」 透花の声が震えた。「どうして、私は誰も救えないの……」 涙が溢れた。「お母さんも救えなかった。蒼くんも救えなかった。私は……何のために生きてるの……」 透花は声を上げて泣いた。 その時、背後で声がした。「泣けたのね、ようやく」 振り向くと、老婦人が立っていた。 いや、違う。 老婦人の姿は半透明で、月光を透かしていた。「あなたはいったい……」「私は美咲であり……そして、あなたでもある」 老婦人は透花の隣に座った。「え?」「私は、あなたの未来の可能性の一つ。もしあなたが、弱さを受け入れられなかった場合の」 透花は息を呑んだ。「私の……未来……?」「そう。美咲は、大切なものを失った後、それを受け入れられなかった。庭を探し続け、父の幻を追い続けた。そして、現実から目を背け続けた」 老婦人は薔薇を見つめた。「美咲は晩年、ようやく気づいた。庭は失われたの
その週、透花は蒼に会いに行けなかった。 中間試験があり、透花は勉強に追われていた。蒼にはメッセージを送り、試験が終わったら会いに行くと約束した。 蒼からの返信は簡潔だった。「頑張って。無理しないでね」 透花は、蒼の言葉に込められた優しさを感じた。 試験最終日の放課後、透花は病院に向かった。 受付で蒼の病室を聞くと、看護師は困った顔をした。「あの……蒼くんは、今日転院されました」「え?」 透花の心臓が跳ねた。「転院って……どこに?」「すみません。個人情報なので、詳しくは……」「お願いします。私、蒼くんの友達なんです」 透花は必死に頼んだ。 看護師は迷った末、小声で言った。「大学病院の集中治療室です。容態が急変して……」 透花は走り出していた。 大学病院は隣町にあった。 透花は電車に飛び乗り、病院に向かった。車窓から見える景色が、ぼやけて見えた。 頭の中で、蒼の言葉が繰り返される。「僕が死んだら、誰が覚えていてくれるだろう」「何も残さずに消えることが怖い」 いや、だめだ。蒼は死なない。まだ、言わなければならないことがある。伝えなければならないことがある。 大学病院に着いた。 受付で蒼の名前を告げると、面会は家族のみと言われた。「でも、私……」「申し訳ございません。集中治療室は、ご家族以外の面会をお断りしております」 透花は廊下の椅子に座り込んだ。 どうすればいい。 透花は考えた。そして、スマートフォンを取り出した。 蒼の両親の連絡先は知らない。でも、前の病院には記録があるはずだ。 透花は前の病院に電話をかけた。
温室から戻った後、透花の中で何かが変わり始めていた。 蒼の前で弱さを見せたことで、透花は少しだけ楽になった。完璧でいなくてもいい。強くなくてもいい。そう思えるようになった。 家に帰ると、透花は母の日記の続きを読んだ。 今まで読むのを避けていた部分。母が病気を告知された後の記述。『今日、医者から告知を受けた。癌。進行している。治療は可能だが、完治は難しいと言われた』『透花にどう伝えればいいのか。この子は、きっと自分を責める。私が病気になったのは自分のせいだと思うだろう』 透花は息を呑んだ。 その通りだった。母が病気になった時、透花は自分を責めた。もっと早く気づけば。もっと母を休ませてあげれば。『でも、それは違う。病気は誰のせいでもない。ただ、起こってしまったことなのだ』 透花の目が熱くなった。『透花に伝えた。透花は泣かなかった。「大丈夫だよ、お母さん。一緒に頑張ろうね」と笑顔で言った。でも、その笑顔の裏で、この子がどれだけ泣いているか、私には分かる』 透花は唇を噛んだ。『私は透花に、もっと自分のために泣いてほしい。自分のために怒ってほしい。でも、この子はきっと、最後まで笑顔でいようとするだろう』 ページをめくる。『治療が始まった。副作用がきつい。吐き気、脱毛、倦怠感。でも、透花の前では平気なふりをしている。透花も、私の前では平気なふりをしている。私たちは、お互いに嘘をついている』 透花の視界が滲んだ。『今日、透花が学校を休んで私の看病をしようとした。私は叱った。「学校に行きなさい」と。透花は泣きそうな顔をして、それでも学校に行った』『私は間違っていただろうか。でも、透花には自分の人生を生きてほしい。私の看病だけに捧げる人生ではなく』 透花は涙を流しながら読み続けた。『入院することになった。透花は毎日見舞いに来る。学校が終わるとすぐに。そして、帰りは夜遅くなる』『今日、透花に言った。「そんなに毎日来なくていいよ。友達と遊んだり、部活をしたり